2013年05月25日
ターミナル・ケア。
ターミナル・ケア。
その人が残りの時間幸せに過ごせる事が大切だと思います。
ターミナルとは違いますが担当させてもらっている利用者さんにALSの方がいます。
在宅で生活され奥さまが介護されいつも笑顔でお話してくださいます。
その方が1日1日をもっと有意義に過ごしてもらえるようマッサージを頑張っていきたいと思います。
小田。
その人が残りの時間幸せに過ごせる事が大切だと思います。
ターミナルとは違いますが担当させてもらっている利用者さんにALSの方がいます。
在宅で生活され奥さまが介護されいつも笑顔でお話してくださいます。
その方が1日1日をもっと有意義に過ごしてもらえるようマッサージを頑張っていきたいと思います。
小田。
2013年05月25日
ターミナルケア。
すごく大事な事だと思います。
私にその時がきたら?どうしたいのでしょうね。って言うように、自分自身にその時がきた時の事を一度は考えると思います。
私は、その人の気持ちを大事にしたいと考えたいと思います。
もちろん家族の想いも…。
最近、兄弟で親の事を話す機会がありました。今後はもっと話す場が増えるんでしょうね〜
相談員 鈴木
来週のテーマ『痛み』です。
宜しくお願いします♪
私にその時がきたら?どうしたいのでしょうね。って言うように、自分自身にその時がきた時の事を一度は考えると思います。
私は、その人の気持ちを大事にしたいと考えたいと思います。
もちろん家族の想いも…。
最近、兄弟で親の事を話す機会がありました。今後はもっと話す場が増えるんでしょうね〜
相談員 鈴木
来週のテーマ『痛み』です。
宜しくお願いします♪
2013年05月25日
ターミナルケアPART2
祖父母も在宅で看取りケア。
それが一般的な時代でした。
祖母は認知症になり時折家に帰りたいと大騒ぎしたそうです。
「ここが家じゃがね。」と従姉が謂うと
「上園に帰る。」と生まれ育った家をいうそうです。
嫁いで70年経っても女性にとって「心の家」は実家なのでしょうか?
それとも昔の記憶だけが残るから?
ともあれ 家族に見守られて幸せな最後だったと思います。
ターミナルケアは事情が許せば在宅で……。
尾崎
それが一般的な時代でした。
祖母は認知症になり時折家に帰りたいと大騒ぎしたそうです。
「ここが家じゃがね。」と従姉が謂うと
「上園に帰る。」と生まれ育った家をいうそうです。
嫁いで70年経っても女性にとって「心の家」は実家なのでしょうか?
それとも昔の記憶だけが残るから?
ともあれ 家族に見守られて幸せな最後だったと思います。
ターミナルケアは事情が許せば在宅で……。
尾崎
2013年05月25日
ターミナルケア
ターミナルケア…
あたしも佐藤さんと同じく、
この仕事に就いてから知りました。
たくさんの利用者さんと出会う中で、
利用者さんの生き方、過ごし方を聞いたり教えてもらったりしています。
その中で病気を受け入れること、家族の支え、絆、そして苦しみや悲しみなどもたくさん感じます。
自分の人生の最期をどう過ごしていくか…
すぐには答えが出せないこと。
あたしだったらどうするだろう…
相談員 松元
あたしも佐藤さんと同じく、
この仕事に就いてから知りました。
たくさんの利用者さんと出会う中で、
利用者さんの生き方、過ごし方を聞いたり教えてもらったりしています。
その中で病気を受け入れること、家族の支え、絆、そして苦しみや悲しみなどもたくさん感じます。
自分の人生の最期をどう過ごしていくか…
すぐには答えが出せないこと。
あたしだったらどうするだろう…
相談員 松元
2013年05月25日
ターミナルケア
幼い頃の記憶で断片的にしか思い出せませんが…。
曾祖母はリウマチで寝たきりだったようです、
「あいたよー、あいたよー。」と口癖のように痛みを訴えていました。
私たちには優しい祖父が
「せからしか」
と言っていたのにはびっくりしたものでした。
祖母は献身的に介護していた様です。
私と従姉は曾祖母のことを「あいたよ婆さん」とよんでいました。
ある日 皆が曾祖母の床の周りに集まっていました。曾祖母が聞きとれない声で何か言うと誰かが顔を近づけて聞き取ります。足が痛い、手が痛い、水が飲みたいということでした。そのたびに母や叔母たちが足をさすったり手をさすったり水を飲ませたりしたものでした。子供ながらに死期が近づいているのを感じました。
それから幾日経ってからのことかは覚えていませんが、学校から帰って従姉と婆ちゃんを探すと曾祖母の部屋で枕元で線香をたき静かに座っている祖母がいました、
祖母は落ち着いていました。そして私達に「婆さんがけしんだ。 おかさんたちをみっながの畑までいたっせ、ゆっかせっ来てくれ。」と言われたのをハッキリ覚えています。
尾崎
曾祖母はリウマチで寝たきりだったようです、
「あいたよー、あいたよー。」と口癖のように痛みを訴えていました。
私たちには優しい祖父が
「せからしか」
と言っていたのにはびっくりしたものでした。
祖母は献身的に介護していた様です。
私と従姉は曾祖母のことを「あいたよ婆さん」とよんでいました。
ある日 皆が曾祖母の床の周りに集まっていました。曾祖母が聞きとれない声で何か言うと誰かが顔を近づけて聞き取ります。足が痛い、手が痛い、水が飲みたいということでした。そのたびに母や叔母たちが足をさすったり手をさすったり水を飲ませたりしたものでした。子供ながらに死期が近づいているのを感じました。
それから幾日経ってからのことかは覚えていませんが、学校から帰って従姉と婆ちゃんを探すと曾祖母の部屋で枕元で線香をたき静かに座っている祖母がいました、
祖母は落ち着いていました。そして私達に「婆さんがけしんだ。 おかさんたちをみっながの畑までいたっせ、ゆっかせっ来てくれ。」と言われたのをハッキリ覚えています。
尾崎